僕等がいた、後篇

 僕等がいた、後篇2012‐04‐23……ハッピーエンドは嫌いです。幸せが嫌いではなく、ハッピーで終わるという形が嫌いなんです。だから何をもってハッピーエンドなのか? と言う論争は無用で、個人的には物語の結末を決めて、それに従いながら映画の撮影を進めるのは日本人特有の性格なんだろう、と邦画を見る度にいつも思います。
映画「僕等がいた」後篇 予告編

 例えば、物語を作る上で観客に想像させるという点も必要だと思うし、期待させることも大切なポイントだとも思います。

 その上で脚本家なりに監督なりの演出がある方が、映画を観賞し終えた時の満足感が随分と違うんではないかな?

 では最後に疑問形で終わる方が良いのか? と問われると、これは全く逆で、疑問形で終わればよい訳でもないと思います。

 例えばよく聞く感想に「原作と全く違う雰囲気で面白くなかった」と言う表現があります。この様な意見を述べるのは昔からで、原作に対する思い込みが強い人、言い換えれば熱烈なファンに成ればなるほど、この思いは強くなります。理由は明白です。原作を読んで(あるいは見て)勝手に想像して作り上げた幻がその作品のイメージとして残るからです。

 そのイメージがあるからこそ原作者でない人が違う媒体で表現すると、全然違う物語に仕上がったような気がするのです。ストーリー自体も漫画と映画では掲載(上映)していた期間が違うので、どこかを省く必要がありますし、このあたりは割り切って楽しむしかないのです。ただここで重要なのは物語に対するイメージは人それぞれが持つという点です。

 だから映画の最後にハッピーにすべきなのか、それとも不幸な人生に成るのか? それは見ている人がイメージすることであり、制作する側が勝手にイメージを決めつけて、制作側の都合で雰囲気を作り上げて。もちろん映画ですから作品の冒頭やストーリーの展開など、観客の心をつかむことは重要な事だと思います。

 ただ映画のラストだけは見た人の自由に任せても良いのでは、といつも思うのです。例えば女性主人公役の吉高由里子が最後に誰と結ばれて結婚しても良い訳だし。男性主人公役の生田斗真が、どこで野垂れ死にしても良い訳だし。そう考えると最後の演出は観客に任せても良いと思います。

 ところで映画の感想とか解説と言えば普通ストーリーを書くのですが、私自身はほとんど書きません。一番の理由はネタバレに成るからで、ちょっとしたヒントは書きますけど、内容が詳しく解る解説は書きません。それにストーリーを書くと成れば、面白く表現する必要がありますよね。すると解説を読んだ人が「これは絶対に面白い」と思い込むのです。

 この状態になるのが嫌でわざとストーリーは書きません。もっとも駄文しか書けないので、私の解説を読んでも期待する人は殆ど居ないとは思いますけど。ただ「人を好きになる」と言う感情は大事にしたいし、大事にして頂きたいと考えています。今の日本を見ていると他人を思いやる気持ちが欠けているような気がします。

 もちろん全ての日本人に欠如している勘定だとは考えていませんが100人の日本人の中で一人でもいればそれだけ目立つ存在になるわけで、やはり日本人は日本人としての気質と優しさを持ち、他人を思いやる精神を大事にしてほしいと希望しています。そういった意味でこの映画は人を好きになると意味を再度考えさせてくれたと思います。

僕等がいた、前篇

 僕等がいた、前篇2012‐04‐17……もしも高校生の頃に戻れたなら僕は「僕等がいた」と同じような恋を望むに違いない。こんな事を思うのも、僕の高校時代は全く輝いていなかったからに違いない。もっと正確に言えば、輝いていなかったという記憶(思い出)しか残っていない!!

映画「僕等がいた」前篇 予告編

て言うか、工業高校だから男女の出会いそのものが無い…なんて映画を見た後で考えていたら、ホワイトディにチョコレートを貰ったことを思いだした。

バイト先で知り合った女の子で学年が一つ下だった。そう考えると結構僕も青春していたじゃないか。

そもそも僕は工業系(自動車系)に興味があったから工業高校に行ったわけだし。女子には全くと言っていいほど興味を持っていなかったし。

 それに当時はまだ高校生でもバイクの免許を取ってよかったから、毎日のようにバイクに乗りまわり、日曜日に成ればバイトばかりしている高校生だった。当然と言えば変だけど、おかげさまで勉強は全くできない学生に育ち、就職もまともにできなかった。さすがに卒業だけはしたけど、お情けだったんだろうな、当時の担任……

 ところで、ご存知でしょうが、この映画は前篇と後篇に分かれています。それぞれの公開日は3月17日と4月21日です。と成れば、前篇作品を公開後すぐに見ると、後篇を見るまでに期間が約一か月空く計算になります。だけど人間心理として続きはすぐ見たいと思いますよね、言い換えれば、単純に前篇を見た後すぐに後編を見たくなるだろう。そう思って前篇を見に行った日付は4月17日です。

 ところがさすがにこの時期、しかも平日に映画館に行くと観客は極端に少なく、私を含めて6人でした。さらに私以外の観客は全員女性で、いくら真っ暗な映画館とは言え、私の姿を見られる可能性はあるわけで、そのうえ悪い事に座席は全て指定席、割と広めな映画館でしたがたったの6人が中央付近に集まって観賞すると言う状態です。つばを飲み込む音だけでなく息遣いさえ聞こえそうな中での映画鑑賞でした。

 と同時に思ったのが、私のような年寄りではなくもっと若い人向け、女性向けの内容に仕上がっているに違いないと言う点でした。私の考えはほぼ間違いなく、上映が始まれば誰でも気づく事でしょう。さすがに今回は失敗したか? と思ったのですが、さすがにいきなり席を立つわけにもいかず、じっと我慢を決め込み、それなら逆にじっくりとみればいいじゃないか、とある意味逆切れ状態でした。

 ところが物語が進行するにつれ、ストーリーの展開が面白く、いわば本当の意味で「純愛小説」です。人間の性別は男か女しかない訳で、たったの2種類しか生存していない世界でお互いに自分のないものを求めるのは自然な事、それがつまり恋とか愛などと言った言葉で表現される。だからこの純愛と言う状況から逃げる訳には行かないのです。

 あまり功徳は言わない方が良いでしょう、男女の愛を確かめたかったらこの映画を見ればなんとなく解ります。そして人間として乗り越えなければいけない事が多々ある事も気づくでしょう。切なさと儚さと実社会を生きていく使命、これが複雑に絡み合って、人間は涙を流して成長するのです。ぜひ皆様も劇場に足を運んであるいはDVDを購入して僕等がいたを楽しんでください。

シャーロック・ホームズ「A game of shadows」

 シャーロック・ホームズ「A game of shadows」2012‐03‐20……シャーロック・ホームズと言えば19世紀を代表する探偵として有名で、ロンドンでジョン・H・ワトスン医師と同居していました。そのワトソンがシャーロックの、探偵としての活躍を伝記に仕上げており「天才的な頭脳により、難問を解決する」と言う内容です。

 さて映画の解説ですが、今回は「最大のライバルが出現する」と言う物語で、設定上「もう一人の天才」という表現でジェームズ・モリアーティ教授が登場します。
 当然ですが見どころは彼との知恵比べになりますが、最近流行りのCGを駆使した森の中での逃避行や、列車を爆発させるアクションシーンも見逃せません。
 またホームズが女装して登場するシーンもあり、面白さとドキドキ感、両方が味わえる映画に成っています。

 ただ、残念な事に私は英語が苦手でして、映画の中で巧妙に仕掛けらえたトラップ(罠)の意味が理解できませんでした。個人的には「伏線」と呼んでいるのですが、これを理解していないと、大事な場面で白けてしまいます。例えば、最後のシーンでホームズが椅子に化けていましたが、これを生かすのが最初に出てくる「あるシーン」です。

 このシーンが無ければ、作品の締めくくりが生かせない訳です。この様に伏線は重要なのですが、実は本のタイトルにも伏線が含まれていました。ところが英文ですので、タイトルの意味を理解していなかった。ゆえに大事な部分のトラップに最後に成らないと気付かない有様です。また、天才と言う状況を表現するためでしょう、理解に苦しむ場面が映画の冒頭で何か所か、見受けられました。

 これら、映画の設定を観客に理解させるには必要なのでしょうが、場合によっては違和感を覚える人がいるかも知れません。もっとも私の場合は映画の冒頭に違和感があっただけで、途中からはラストのシーンまで全く気に成らなくなりました。このあたりは個人の感情による部分が大きいのでここによって意見が分かれるところでしょう。

 さてストーリーについて簡単に述べたいと思います。もちろんネタバレするような全てを語る気は毛頭ありませんが、正直な気持ちを言えば解り難かったです。妻の意見を付け加えると、前作の方がストーリー的には良く出来ていたと言う事ですから、私が感じたこともあながち間違いではないでしょう。ですが、映画の出来と言う意味では最高でした。

 ところで、映画の制作側から考えると今回は非常に難しい演出が求められたと、個人的に感じました。例えば前作の映画を見た人と今回の映画が初めて、と言う人では、映画に対する認識が違います。出演する人の役目がある程度分かる人とまったく分からない人、と言う区切りで考えると理解しやすいと思います。

 誰が何の役をするのか? 分かっている人に最初から説明すると「くどい映画」と映るし、まったく説明をしないと分からない人にはもっと分からなくなる。だからどこまで説明するのか? この辺りのさじ加減が難しい。さらにシャーロックは天才探偵と言う設定なので、いかに天才であるか? 観客に分かるようにしないといけない。だけど観客に「天才だな」と理解させるような演出も難しい。また映画とは物事を説明するのではなく観客が自然に理解できるような演出が求められている。

 とまぁ、個人的な意見を簡単に述べましたが、シャーロック・ホームズの名前を知っている方は見るべき映画だと思います。19世紀末~20世紀にかけて活躍した探偵の物語です。当時に時代背景を感じながら映画の世界に没頭して頂ければ、映画を製作された方も本望でしょう。ところでシャーロック・ホームズは実在しない人物です、勘違いされないようにお願いします。

デビルズ・ダブル「ある影武者の物語」

 デビルズ・ダブル「ある影武者の物語」2012‐03‐06…R-18指定映画…ウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)の影武者が語った真実を映画に仕上げた作品です。事実だからこそ歪んだ物語に仕上げる事は許されない、ゆえに映画として観賞するとラストが物足りないと感じるかも知れません。それだけに嘘が混じらない映画でしょう。

 サダム・フセインには二人の息子がいましたが、長男の素行が悪い事は側近だけでなく周知の通り、彼の名はウダイ・フセイン、だが影では「ブラック・プリンセス」と呼ばれ、劣情の限りを尽くして生きているような人物だった。

 この男が影武者に選んだ人物は「ラティフ・ヤヒア」という、高校時代の同級生。顔が似ているという理由から影武者に選ばれて家族の命と引き換えに引き受けたとされている。

 この影武者にされたという話は出版され(現在日本国内では入手できないと思われる)その出版物を基に制作された映画です。

 もしもサダム・フセインが現在も生きていれば(2003‐12‐13米軍により逮捕、裁判後2006‐12‐30に絞首刑により没)その権力により出版はされていないだろうし、本人も報復を恐れてペンを握ってはいないだろう。ちなみにウダイ・フセインは米軍の邸宅突撃により2003‐07‐22、弟の「クサイ」と共に死亡している。

 さてストーリーだが、元々ノンフィクション映画として脚本を制作している。ネットで「ウダイ・フセイン」及び「サダム・フセイン」の経歴を調べたが、映画で描かれていたストーリーと全く同じであった。無論、随所を見れば脚色されている場面が多いが、ノンフィクションという関係から目ぼしいストーリーはない。アクションシーンも目を見張るような場面は皆無と考えて期待しない方が良いだろう。

 その反面、ウダイ・フセインが、時の権力を盾にどのような悪行を行っていたのか、また、(様々なニュースを読むと)女(性行為という意味)と酒を365日、24時間楽しみ、日常的に暴力と略奪を繰り返していたらしく、映画の中でもこの点は重点的に描かれていた。また実際の戦闘シーンも随所で使われている点から監督の意図を読み取れば、フセイン家族を描写しようとしていたのではないだろうか?

 もちろんフセイン一家を擁護する立場の人もいれば、彼らを憎む立場の人もいる訳で、歴史として考えた場合、彼らのしたことがすべて悪いと言えるわけではない。遠い将来、この事実が教科書に載った時、判断するのは未来の人間であり、現代の私達(直接かかわりのない立場の人という意味)が外部から「あれこれ」という資格はないと思う。

 さて見どころだが、一番はドミニク・クーパーが演じる一人二役だろう。影武者という内容だから瓜二つの人物がいる設定に成る。と成ればその二人を一人の人間が演じればことは丸く収まる。ところが実際問題として似ているが別人なわけで、それを一人の役者が演じるとなれば大変である。もっとも役者は「自分自身ではない誰か」を演じるのが仕事であるし、演じきれる自分を誇りに感じるだろう。

 そういった意味では、時の権力者と影武者という二役を一人で演じるという誇り、と不安、さらにはチャレンジ心が入り混じって出演を決定したのだろう。実際に映画を見ればわかるがドミニク・クーパーが演じる一人二役は見事というしかない。映画のパンフレットなどを見れば「怪演」という表現をしていたが、私から見れば「凶演」である。一人で二人分の共演をしている、という意味である。

 ところで物語で一番肝心な点はラストシーンである。いくら映画の最中がとても素晴らしい出来上がりだとしても、最後の演出が悪ければ、映画に対する印象が悪くなる。逆に言えば途中が少々悪くてもラストシーンで盛り上がれば観客は喜ぶともいえる。もちろん限界はあるが、ラストの締めくくりに一番苦労する点だろう、とどの映画を見ても思ってしまう。この点から言えば少々物足りない最後であった。

 映画を見ていると観客の心理として「たぶん、こんな感じで終わるのでは」という勝手な推測が成り立つ。言い換えると物語に対する期待が、ラストシーンに対する期待でもあり、物語の完結は「このようになって欲しい」という願望である。例えば「友人が恋人と結婚して欲しい」という感情と「友人は恋人と別れて、その恋人が自分の恋愛対象に成れば」と願う気持ち、その両方がこの世に存在するという事実を考えてほしい。

 もちろんその両方の願望を一度に持つことは滅多にないが、その通りに進むと「うれしい」という感情が起こり、思う通りに現実が進まない時の「悔しい」という感情と対立する。これが人間の感性であり、ロボットとは違う。これと同じ事が映画のラストシーンに対する期待にも言えて「観客が望む演出」と「観客が望まない演出」両方が存在して初めて映画に対する評価が決まる、と私は考えている。

TIMEタイム「時間に支配された世界」

 TIMEタイム「時間に支配された世界」2012‐03‐05……貴方の寿命が23時間しか残っていない事を貴方が知った時、貴方はどんな事をするでしょう? 普通ならショックのあまり何もできないでしょうし、残された時間の短さをうらやむに違いありません。ところが自身の寿命を救う方法がたった一つあります。寿命は時間を買えば伸びるのです。

 さて、この様な状況にあなたが置かれたと仮定したら何をします?

 普通の人なら「死」が怖いから時間を買う為に仕事をします。

 言い換えると労働=お金ではなくて自分自身の寿命であり、自分に残された時間を使う事により人間らしい生活を営むことが出来ます。

 もちろん、映画の世界ですから架空の物語です。ですが本当にこの世の経済活動が、社会に生きる人の残された時間で決まるとしたら、とても怖い事だと思いませんか? さて映画、TIME「タイム」は息子と母親との会話から始まります。元々は無理のある設定で物語が進行しますので、観客の心をつかむために苦心した演出が光ります。例えば人間は25歳になると残された寿命のカウントダウンが始まる事に成っています。

 また、25歳以降は年齢が増えない。つまり生き延びることが出来た人間は何年生きても外見は25歳のままです。だから母親の実年齢は50歳、息子の年齢は28歳、なのに外見は25歳だから、見方によっては恋人同士(夫婦)が同棲しているような場面から始まる。それを親子である、と観客に認識させるために様々な手法を使う。

 ともすれば、過剰演出に陥り、駄作と成り得る場面だけに、苦心したのだろう。違和感を覚えることなくTIMEの世界に入り込むことが出来た。このあたりに評価が集まりgoo映画2/28付の順位は第二位にランキングされていた。

 ストーリーそのものは単純である。恋に落ちた男女が「悪の手先」から逃げ回るという設定で、このあたりは無難にこなしていると感じた。もちろんTIMEという設定がある以上、演出も複雑で例えば「時間」が現在の「貨幣」と同等であるから銀行が扱うものも「時間」であり、金貸しは「貸す時間」に対して利子をつける。借りる立場の人間も利息を含めて返さないといけない。

 悪徳業者は高金利で時間を貸し出し、その金利で企業は大きくなる。企業の幹部クラス、経営者は富裕ゾーンと呼ばれる地区で生活を営み、一般労働者はスラムゾーンに追いやられて時間に追われながら単純作業の仕事をこなす。そのスラムゾーンに住む一人の青年がある日、富裕ゾーンから来たある人物から116年分の時間を受け取る。

 このことが発端と成り時間を監視する人物(警察と言った方が分かり易いだろう)に追われる事となるが、青年は捕まる前に116年分の時間を利用して富裕ゾーンに紛れ込む。そして一人の女性と知り合い「悪の手先」から逃げ回る事に成る。文字として表現すればたったのこれだけだが、実際には2時間弱の間、目まぐるしく変化するストーリーに目は釘付けになるだろう。

 ただ残念な事に「なぜ時間が貨幣と同じ意味を持つ」事に成ったのか? このあたりの真相が知りたかった。というのも映画の中では真相を追求するような伏線がいくつも含まれている。だが結末に至るまでその伏線が効果を発揮したとは思えなかった。せっかく伏線を物語に埋め込んだのだからもっと上手な脚本が書けたのではないだろうか?