マイ・バック・ページ

 マイ・バック・ページ…時代背景は1969年頃の安田講堂から始まる。この時期と場所を正確に覚えている人なら懐かしく、そしてご自身が過ごした青春を思い出すに違いないだろう。違う表現を使えば、この時期を懐かしく思い出したい、と考えている人が好むようにストーリーを作り出しているに違いないと感じるぐらい時代背景にこだわっていた。

 逆に言えば、ここまでこだわる必要性を覚えていたのは監督自らなのかも知れない。と言うのも知らない時代背景だからこそ逆に、正確に表現したかったのかもしれない。描写の中でやたらと、たばこを吸うシーンが取り入れられているのは、監督自身が「たぶんこのような感じだったのだろう」というリアルタイムで感じていない時期だったのだろう、と勝手に推測をしてみた。

 ちなみに1960年代後半から1970年代前半に起こった「学生運動」について、知らない人はこの作品を見ても、興味を覚えないだろうから、少なくともネットで「学生運動」に関する事件を検査した方がより一層面白く感じるだろう。そのぐらい日本の将来を揺るがす(かも知れないと感じるぐらい)事件が勃発していた時期でもあった。

 そして「安田講堂」が学生運動の中心であったと言っても半分以上嘘ではないだろう。安田講堂と言えば東大の一部であり、のちに「全額共闘会議」などと呼ばれる組織に育つ学生を主体とした集まりで、主に東大の安田講堂が主現場に成ったので有名になった。

 そして映画は安田講堂の廃墟から始まる。当然と言えば変になるが、一般的市民からみると、全く意味の分からない場面であるが、少なくとも当時の事件をニュースなりで知っていて、さらにこの作品「マイ・バック・ページ」のストーリーを知っている方ならすぐにピンとくるであろう。

 だがすぐに「学生運動」と言う場面に繋がるのではなく、当時の学生がどのようなアルバイトに精を出していたのか? と言う点に変化する。ネタバレにならないように言えば、この冒頭の演出があって、最後の妻夫木が○○シーン(ネタバレ注意)に繋がるので、少なくとも見逃したという事態だけは避けたいと感じている。

 ところで、私自身1969年と言えば7歳だったから、当時のニュースは微かな記憶として残っている。逆に言えば鮮明な記憶として残っている訳ではなく、私の年齢よりも上の人、つまり団塊の世代の方々にとっては懐かしい場面と成り得る映画だろう。

 だからと言って2011年に1969年と言う時代を正確に描写することは不可能と言え、ある種の閃き(テクニック)によって、この問題をクリアすることに成功している。鮮明に画像に表わすのではなく、ぼやけさせる事により、時代背景を思い出させる、あるいは想像させるように意図した映画に仕上げてある。

 このことはパンフレットにも書かれていたので間違いないだろう。だが、この種の映画はどうしても「思い出」と言う面もあり、実際、映画館の中で見かけた人たちは、私よりも年上の方が多いように見受けた。

 ちなみに1969年と言えば学生運動が盛んな時代で、ベトナム戦争などの裏側に隠されている日本の姿(もちろん想像の域を出ないが)に反感を持った若者、特に学生たちが主と成り、デモを繰り返していた。当時7歳の私でさえ、テレビの画面から流れるニュースを見て記憶している。

 そして本作「マイ・バック・ページ」では、そういった思想を持つ集団にあこがれる若者、梅山「松山ケンイチ」と、ジャーナリストとして理想を追う記者の姿をゆめみる沢田雅巳「妻夫木聡」の出会いから、物語は展開を見せていく。だがそれよりも、作品の冒頭で表現されている時代背景に興味をひかれる。

 そもそも物語とは想像の世界であり、もちろん元となる事件はあるが、それをモチーフに自分の訴えたいことを強調させて表現する。ゆえに時代背景をより鮮明にさせる必要があるのだろう。だがこの手の描写は下手をするとまったく意味を持たない事になり得る。実際、この映画「マイ・バック・ページ」でも冒頭部分が持つ意味が解らなかった。

 だが最後になってやっとこの冒頭部分の意味が理解できた。ラストに見せる沢田雅巳(妻夫木聡)の涙の意味に繋がってくるのだった。この伏線(小説を書くときのテクニックの一種)があるのとないのでは作品が持つ重さに随分と違いが出てくるので、私自身、常にこだわりを持ってみている。やはりさりげなく伏線を入れてあると気付いた瞬間に楽しくなってくる。

 この映画の見所はやはり若者特有の、理想に向かって自分の人生を賭ける、と言う点と理想は理想に過ぎず、多くの若者は現実と言う挫折を味わう。と言う正論の表現だと個人的に感じます。もちろん私は監督ではないし、脚本を書いたわけでもないので本当の趣旨は分からない。だけど映画って、個人々が勝手に思い込みを作って楽しむことが大事だと思う。

 すべての人間は育ってきた環境も条件も違うので、考え方に相違が出てくるわけだし、それが個性となって人間味に深みが出てくるのだ。だから感性にも違いがあるわけだから、梅山が最後に見せる悪あがきと、沢田の涙が持つ意味を自分なりに感じれば、それが一番だと思う。

 仮に、自分の性格に合わない映画だったとしても、その映画の感想を聞かれたときに「何も感じなかった」と答えるような人間にはなりたくない。すべての物語にはそれなりの意図を持たせて創作されているに違いない、と常日頃思っているから。